C&A

山口県の片田舎で生まれ育った私は10歳の時に、歌のベストテン、という番組で初めてChage & ASKA を聴いた。うろ覚えだが、確か曲目はモーニングムーンだったと思う。その番組の司会は黒柳徹子さんだったが、彼女の親しげな話し振りから、ああ、この歌手は新人じゃなくてかなりベテランなんだなと察した。ではなぜ、彼らの名前をそれまでは知らずにいたのだろうと、少し不思議に思った記憶がある。

私の家族は音楽に疎くて、家にあるレコードは3枚だけだった。 寺尾聰の”ルビーの指輪”と、五輪真弓の”恋人よ”、それからビートルズの”イエスタデイ”。それでも私は祖母と、木曜の夜8時は一応歌番組を見ていた。もう60代だった祖母は、演歌は好きだったけど、その他の歌謡曲は敬遠していた。その祖母が、その日彼らの演奏の後でポツリとつぶやいた言葉が、

"こりゃあ本当に歌の上手い歌手だねえ。"

学校の音楽の先生から、歌謡曲は程度の低い音楽だという印象を植え付けられていた私には、C&Aとの出会いは目からウロコが落ちた瞬間だった。でも、だからといって彼らのレコードを買いに行くわけでもなく、日々は過ぎた。それから数年後、巷でパラダイス銀河が大ヒットした時、私は中学校の吹奏楽部にいたのだが、運動会のマーチのために選ばれたその曲の楽譜には、飛鳥涼という作曲家の名前が印刷されていたはずだ。でもまさかそれが、あの時聴いたC&Aの片方だったとは知る由もなかった。

1991年にSAY YESが一世を風靡した時、私は高校1年生だった。合唱部に入った私は、C&Aの曲を歌うため、Chageのパートを譜面にしようと四苦八苦したのだけど、なかなか上手くいかなかったのを覚えている。彼のやるハモりは、単純に3度5度の追従ではないのだと、その時に思い知らされた。それからまた数年後、私は二十歳の時に渡米した。そのころ通っていた日本の大学の食堂で、天井近くに吊り下げられた真空管テレビに映る Chage とASKA がドラマのオープニングで歌う YAH YAH YAHを、今でも鮮明に覚えている。彼らの歌声に鼓舞されたのだと思う。世界に羽ばたいた二人を追いかけたかったのだ、私も。

あれから20年あまりたった今も、私の聴く邦楽はC&Aだけだ。日本に帰るたびに、彼らのアルバムを買った。20代の後半に、彼らの音楽がアコースティック主体になったころのアルバム NOT AT ALL を聴いて、その変遷にかなりがっかりしたものだけど、この歳になってから改めて聴いてみると、それもすごくいい。見る目というか、聴く耳がなかったなあと反省している。

私はいわゆるコアなファンではない。C&Aのライブに行ったこともない。ただ、彼らの紡ぐハーモニーが好きなだけだ。私はいつも、複旋律の音楽の美しさに魅了される。バイオリンの音色も、第一と第二がからみあってこそますますその輝きを増す。

だから私は、C&Aの終焉を告げられると本当に悲しい。あと何年音楽をやり続けられるのかを考える年齢になってしまったとASKAは言うけど、だからこそ、もう一度ふたりで歌ってほしい。自分だけの音楽、とか言わずに。