今年度のノーベル物理学賞

今年度のノーベル物理学賞は、レーザー関連の研究者に贈られた。物理学賞の専門分野は大まかにいって光学、素粒子論かあるいは宇宙論、固体物理の三種類があって、各分野が均等に受賞するようにという意図から大体のところ三年周期で回り回っている。昨年が素粒子論、二年前は固体物理関連であったため、今年は多分レーザーだろうとは予想していたのだが、少し意外だったのは三人の受賞者の中にひとりストリックランド博士という女性の研究者が含まれていたことだった。彼女はカナダの実験物理学者で、超短パルスレーザーを開発なさったことで有名だ。私は、大学卒業間際に出席したアメリカの学会で彼女に一度だけ会った事がある。会った、といっても一対一の対面ではなくて、Women in Physics とかなんとかいうフォーラムに参加して無料のランチを食べた時のゲストだったのがストリックランド博士だった、というだけの話なのだけれども、彼女は他のゲストの女性よりも印象に残っている。というのは、彼女は本当に飾り気のない気さくな話ぶりの方であったからだ。その場は、いかんせんフェミニストな発言が飛び交っていて、意見などを聞かれたり、単に無料のご飯を食べようと思って参加しただけだった私にとっては少し居心地がわるかったのだけれども、ストリックランド博士だけはなぜか純粋に物理の話をなさっていた。なぜレーザーを研究したのかと聞かれて、彼女は、光の色が綺麗だったから、と答えた。ただそれだけです、わはは、と。彼女は、女性の権利とかそういったものを求めて参加した人たちには少し的外れの答えばかりなさっていた。化粧気もなくスッピンで、髪の毛もブローとかは絶対にしてないな、という彼女の風貌にも、私は親近感を覚えたものである。

 

ノーベル物理学賞を受賞した女性は、これまでに彼女を含めて三人だけしかいない。ラジウムから出る放射能を発見したマリー・キュリー、殻模型とよばれる原子核のモデルを打ち立てたマリア・ゲッパート=メイヤー、それから今年度のストリックランド博士である。ちなみに、ゲッパート=メイヤーのゲッパートは彼女の旦那さんの名前だ。マリー・キュリーも、私が子供の頃にはキュリー夫人、として扱われていた。キュリー博士の奥さん、ということだったんだろう。なんだか失礼な話だが、女性の敬称にはいつも旦那の影がつきまとう。私も、結婚以来何かと言うと主人の苗字で呼ばれそうになって辟易している。確定申告とか、住民票とかは主人名義なので仕方ないのだけれども、研究とか仕事の場では自分の苗字で通したい。というのは、結婚前の論文と結婚後の論文に載っている名前が違ったらまぎらわしいからである。それだけの理由で、結婚しない女性の学者も多分世の中にはいると思う。そのくらい苗字の問題は面倒臭い。

 

まあそれはともかく、ストリックランド博士の受賞はいろいろと論議を呼んだ。彼女の適正とか品格についての文句ではなくて、彼女のこれまでの社会的地位についてである。そもそも、どうしてノーベル物理学賞をとった女性が男性に比べて少ないのか、という疑問がまず挙げられた。まあこれは、女性の物理学者の人口の少なさからすればあたりまえであろう。物理学とかいう地味な職業を好む女性が少ないのは仕方がない。私が大昔に素粒子研究の実験を少しやった頃、大学の助手の方から、化粧はしないでね、ホコリがあるとデータに支障があるから、と言われてちょっとだけ憤ったことがある。あのころは私も一応年頃だったし、化粧くらいしたかった。私の婚期が遅れたのはそのせいも多少はあるかもしれない。また、放射能研究とかは母体に影響もあるから妊娠中はできない。いろいろな意味で、女性には物理や化学の研究は男性よりもやりづらい。

 

さらに、ストリックランド博士の働く大学に非難が挙がった。なぜならば、ストリックランド博士がノーベル物理学賞を受賞した当初、彼女が本教授ではなくてそれよりも位の低い准教授という待遇にあったからである。どうして、彼女のように優れた学者を差し置いて他の男が教授になったのか。女性差別ではないのか、という疑問。これについてはストリックランド博士が自分で返答なさった。ああ、それは単に私が希望しなかったからです、と。査定に伴うペーパーワークや手続きが面倒臭かったらしい。もちろん、本教授と准教授では給料に30パーセントほども差があるのだけれども、それも気にならなかったという。自分はやりたい事ができればそれでよかったのだと。この女気。感涙ものではないですか。ただ、思うに、女性は男性よりも家庭での責任が重いから、夜も昼も明けず仕事に打ち込むという訳にはなかなかいかない。ストリックランド博士は結婚なさっていて子供さんも二人あるという。お母さんとして働いていた頃の彼女は男の教授に比べて能率が上がらなかったのかもしれない。私も娘を育てながら研究をした事があるので、想像はつく。

 

先週、私の働いている大学の物理学部の定例会議があって、その時にボーナスの事が話し合われた。抜きん出た仕事をした者に賞与を与えようという試みが大学側から出たらしい。毎年、まず3人以上候補を挙げてから誰を選出するか決めようということになったのだが、そこに最低一人は講師を入れようという意見に、講師たちの間から不満が出た。どうして我々をもっと特別扱いしないのか、というのである。まず、なにを根拠に候補を決めるのか。研究をしない講師にとって、教職の出来具合のみが査定の基準になるのだけれども、それは論文の数とは違って客観的には測りにくいではないか、我々に教授レベルと競争しろというのは不合理だ、というのである。私も講師の一人なのだけれど、私としては、そんなにボーナスが欲しいのなら教授を目指せばよいではないか、と思ってしまった。教授と講師ではどうしても格が違う。教授として雇ってもらうには、それなりの研究実績と推薦が伴わなくてはならない。それを棚に上げて同等の待遇をしてもらえないことに文句を言うのはおこがましい、と私は思うのだが。前述したストリックランド博士の欲の無さを思えば、ますますそうである。

 

最後に、ストリックランド博士は受賞時の段階でウィキペディアに載っていなかった。有名ではないから、という理由でウィキペディアが以前に読者からのリクエストを却下したらしい。見る目がない、というのか、ウィキペディアの編集者にしてみると恥さらしもいいところである。もっと勉強してください。